051「語る」7月6日
052「金」7月6日
053「逆立ち」7月14日
054「仕事」7月21日
055「元」7月29日
056「水は低きに」8月4日
057「そうなの?」8月21日
058「生の価値」8月31日
059「遺伝子?」9月8日
060「打算」9月16日
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051「語る」
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語呂からの想像であって、ちゃんと調べたわけではないが、 ものを言う、「話す」という動詞。 どれくらい昔の事だろう。この動作に、この「ハナス」という発音をあてがった時の気分に、思いを馳せる。 おそらく「話す」は「放す」と同じルーツだったのではないだろうか。 放る。放つ。 そうだ。 話す、とは、放す。 そして、「語る」。 これは「騙る」と源を同じくしていただろう。「固む」や「形」とも近いのではないか。 語る、は、騙る。形を与え、固めて、騙る。 あなたが何かを語り、何かを話すとき、 いったい「何」に形を与えて、騙り、放っているのか。 それは、あなた自身。 形も無く、際限の無い、あなたのたましい。無限の宇宙。 その無形の魂に、言葉をあてがい、つかみ得る形に固め、そのぶつ切りに分節された言葉でもって、無形のあなたを有形に「騙る」。 気高い魂は、その気高さによって語り、 下卑た魂は、その下卑さによって語り、 ・・・魂は、・・・・・・・・・語り、 ・・・ その魂のおもむく所によって言葉は語られる。 魂と言語は「カタリ」において繋がっていて、そして、もちろん、「カタチ」として行動に現れるであろう。 あなたのココロとコトバとフルマイは、振り返ると、何を目指していますか。 |
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052「金」
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自分もそういう部分を捨てきれなかったのを思い出したりすると、ほとほとイヤになる。 ・・・ 多くの人が、いいものと思って、金(カネ)を欲しがるが、 なまじ、その金があると・・・ 金があると、守銭奴と掠取者ばかりを生み出す。 そして、時と場に応じて、そのどちらにもなる。 ほんとは、 金は、金である、だけで、善くも悪くもないが、 そう・・先ほど「金(カネ)を欲しがるが、」と逆接で言ったけれども、 実は、その「欲しがる」というその事によって、先に述べた効能(笑)を示すのである。 改めて、さっぱりしていようと努めているつもりだった自分を振り返って、げんなりする。 そして、あるものについても同じように述べてみたくなるが、ヤバすぎるので略。 |
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053「逆立ち」
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「オレは不当な扱いを受けている。」 とか、 「こんなんで割が合うワケないじゃない。」 とか、 「元を取らなきゃなあ。」 とか、不平をかこって、さらにさらに要求したくなる気持ちは分からんワケじゃないけど、 その観点で押し進めれば、 生活・生存ってさあ、これは宿命なんだけど、「欲して、得ようと」せずにいられないじゃない。 だったら、自分が、「生」きて「在」る事が、もはや無限大に不当ではないか。 それに気付かない内は、欲したものが得られても、絶対に、ぜったいに穴埋めなんか出来やしないさ。多分、気付かないまま、もっと、もっと、と欲しがり続け、しかも、どれだけ獲てもいつも不満。「これっぽちで足るワケがねぇ」と。 そう、死ぬまでね。 昔の人は、その気付かないさまを「顛倒(てんどう)」と呼んだ。 「逆立ちしてるよ」ってね。 |
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054「仕事」
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会話の中で「お仕事は何ですか?」 と訊ねられて、あなたが何らかの職業についているのならば、たいてい、その職業について答えてくれるだろうし、ついていなければ、そのように答えるだろう。 言うまでもない事だけれども、これらの職は、一生を通してするものではないだろう。 日雇いから、バイト、パート、あるいは正社員も定年のみならず、倒産、リストラなど、就職という始まりがあり、また何らかの形で終わりを迎える。 ここでは、そういう経済的な報酬を貰える職業での経験だけでなく、もっと全的に、 「(私)の一生の仕事があるとしたら、それはどういう事なのだろう?」 を考えてみよう。 あなたが就労していなくても構わない。中学生でもいい。お年寄りでもいい。 (中には「一生の仕事なんてあるワケないでしょ。」と思う人もいるだろうが、まあ仕方ない、ご縁が無かったというだけの話。それでも、やはり世は事も無し、なのだし。) 一生の仕事。とは、その時その時に自分が置かれている環境・境遇において、自分がしうる、そして、すべき事をする。それだけではないか。 受け入れるにしても、飛び出すにしても。 出会うにせよ、別れるにせよ。 与えられるにせよ、奪われるにせよ。 常なる、今!の瞬間において、なすべき事をする。 瞬間はここにおいて永遠に立ち顕われる。 もしくは逆。つまり凝縮。 さて、その「するべき」は何をよりどころとするのか。 「仕」も「事」も共に「つかえる」と読む。つまり、いったい何に仕えるのか。 考えてみて欲しい。 あなたが一生をとおして仕えるのは、だれか他人ではなかろう。金でも、時代でも、いっときの法律でも価値「観」でもない筈だ。 そもそも、「自分」が少なくとも生涯をつうじて付き合えるのは、「自分」であることだけだ。 ならば、どうやっても離れられない(というか、そのものである)、自分の魂を、仕えるにふさわしいだけの魂にする他には、ないのではないだろうか。 そのような自分をめざして、自分の生涯を紡ぎ続ける。 それこそがあなたの、唯一の、一生の仕事。 |
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055「元」
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「自分だ」と感じている自分が、いる。 他の誰でも、なく。 それを感じて、変だ、不思議だ、なんでだ、と疑問に思った事は、ありませんか。 「(自分が)在る。」???えぇ〜?なんかワケワカラン。って。 |
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056「水は低きに」
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テレビで、不正を働いた政治屋を批難する調子の番組を流していた。また、人前で化粧を平気で直したりする女の子などを例に挙げ「なぜ日本人は恥を忘れたのか」を論じていた。 個々のゲストの意見はともかく、その番組じたいの姿勢が、ちょっと。 そうやって批難する番組を作る側が「自分は別。」という姿勢でいるのが、鼻につく。 無自覚なのは番組の企画をする人ばかりではない。他人を責める時は、大抵の人がそうなのであろう。 インチキしてでもトクをしたい、大多数の、どこにでもいる市民の一人が、たまたま政治家になったり、官僚になって、実際にズルをしてしまっただけ。 ずるい権力者は鏡に写した多数の市民の像だともいえる。 恥知らずな振舞いをする大人に囲まれて育って、恥じる事を知らないのが当たり前になってしまえば、人前の化粧くらい、なんのそのであろう。 見れば、彼ら彼女らは、親などの生活態度を忠実に引き継いでるとは言えないか? もちろん、それでも、不正が悪であり、恥知らずの醜さには変わりがない。ただし、そういう下卑た事をするくだらない連中の事に時間を費やしてチチクッていても不毛であろう。だって彼らは自分の行為がよくないことを理解出来ないからそれをするのだ。サルはサル、ブタはブタのままだ。と言ってはサルやブタに悪いか。彼らは「人権」を振りかざしたりしないしね。 法規制も糾弾も根本的な解決にはなるまい。 あれらを見て、悪い、醜い、とわかるのであれば、まず、自分がそれをやめるのがいい。 悪とは自分に悪く、醜とは自分が醜いのだから。 自分を解決しようとせずに、いったい、何の解決が出来るものか。 |
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057「そうなの?」
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昼の2時過ぎ頃だったと思う。本堂にやって来た男の人。 「俺は動物霊にとり憑かれて、そいつは俺を殺すと言ってるんだ。(とり殺されない為に)『修行』をやりたい。そういう所をどこか知らない?」 彼が言うには、寺に泊まり込んで、体中にお経の文字を書いて云々…とその「修行」の内容を決めてきているようだ。それはともかく、私の寺は住み込みなどを受け入れないので「うちではそういう事をやってないし、やっている所も知らない。」と正直に答えた。 彼「どっかないですかね。」 私「私は知らないのです。」 という問答を幾度も繰り返した後、彼は言った。 「じゃ俺はとり殺されるって事ですか?」 「死ぬ死なないは分かりません。」 「神も仏も大した事ないってことだね。」 「では神仏とは人間の要求をハイハイと聞くとお思いですか?それでは神仏が人間の下僕になってしまう。」 逆に私が訊ねてしまった。 「で、死ぬという事が分かっているんですか?」 「そう。」 ここからがいけなかったらしい。 「だったら、死ぬまでの残された時間を、どのように生きていこうかを考えてみてはどうでしょう?」 したら、とたんに彼は不機嫌になる。「はぁ?!だってとり殺されちゃうんですよ?!」 「だからこそ。3年後か3日後か分からないけれど、その死ぬまでの人生をより善く生きてみようとは思わない?私はそう考えるけど。」 目を背け、吐き捨てるように彼は返した。 「バカバカしいっ。」 そして身をひるがえし、「バカバカしい。レベルが違う…」と呟きつつ、彼は立ち去っていった。 私は逆恨みされた事かもしれぬ。憎まれるのはイヤだがデタラメの気休めを言うのはもっとよくない。 彼との問答を振り返り、ため息。 ただ死なないでいる事だけが問題で、生きているその間にどう生きるかなどは、どうでもいいのか。バカバカしい事なのか。 だいたい、生きている、という事によって、必ず死ぬのだ。赤ん坊も老人も、健康な人も病人も、捕まらなかった人も死刑囚も、たった一人の例外もなく、死ぬまでの「余生」を生きるのだ。 たまたま「今」生きている。違うのか?その視点から、「今」歩み始められないだろうか? |
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058「生の価値」
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「アイツは生きる価値無しだな!」 というのを時に耳にする。人を批難する時のセリフだ。 口の良し悪しはともかく、この言い方は多くの人が信じている誤解を端的に表わしている。なぜなら、このセリフにおいて、「生きる」とは「価値ある生き方」に対する報酬として位置付けられているからだ。 言い換えると、ただ「生きる」ことそれ自体が無条件で価値・良いものとして扱われているからである。 おかしいでしょ? だって、今、生きているその人が、今、生きている。そこに価値や才能や人徳は無関係だ。「生きるため」の「価値」なんて考えられない理由である。 それとも、もし「(自分から見て)価値が無い奴はいない方がいい。」との主張だとすれば、それは、選民・選良思想とでも名付けるべきものであろう。或いはリンチや独裁への志向か。 人が生きる。その、ただ「生きる」だけには、どうやら価値がない事が分かってきた。 では、どうするか。 言うまでもない。価値ある生き方をするしか、その生き方に価値はないのだ。 「あれえ?じゃあ最初のセリフと同じじゃん?!」・・・いいや、全く違うのだ。 冒頭のセリフは「生存の為の価値」という本末転倒だ。 そうではない。「げんに生きて在るかぎりは、価値ある生き方をしなければしょうがない。」のである。 勿論、他人が強制する事ではない。どんなに愚劣に生きようがその人の勝手ではある。寿命の長短も関係ない。ただ、その人が価値ある生を送れない、つまり幸福に生きられないと言うだけの事である。だから、「しょうがない。」 あなたが、生きる上で真善美たる価値を求めなくても、それはあなた以外の誰の問題でもない。ただし、それで幸せになれないのは、 他でもない、あなただ。 |
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059「遺伝子?」
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そういえば、葬儀場でだったか、壁に貼られたポスターが目にとまった。 あなたの死後、あなたの遺伝子を保存します。 それは新しい埋葬(?)方の提案だったかと記憶しているが、それは一体どういう思いによるものなのだろう。 このエセーを読んでるあなたに質問。 あなたとは、あなたの体の遺伝子ですか? Yesですか、Noですか。 質問をちょっと良く読めば分かるが、これはNO!でしかありえない。所有・所属として「あなたの○○」と言い得る途端に、「あなた」と「○○」は別々だからである。 アホな事を聞くな、当然だ。と思った方は、ごめんなさい。でも、世の話を耳にするにつけ、自覚の有る無しにかかわらず、「自分=遺伝子」と信じている人は、思いのほか多いようなのだ。で、つい質問を。 うーん。例えてみるならば、「自分」の体とは、馬のようなものであろう。(私は乗馬は出来ないが) 「自分」とはその馬に乗っている人である。 ただ、普通の乗馬と違うのは、「自分」はその馬に、いつの間にか乗っている。 つまり、その特徴をより好みして馬を選ぶ事は出来ない。また、別の馬に乗り換える事は出来ない。 更に、どういう訳か、1頭の馬には、乗り手も必ず1人である。1頭に2人は乗れず、1人が3頭を乗り分ける事も出来ない。 今をときめく?バイオテクノロジーでなら、自分が乗っている馬と、全く同じ特徴を持つ馬が作れるかも知れない。 「オレの馬もくたびれて、もうすぐ死んでしまいそうだ。でも、まるっきり同じ馬を新しく作ったぞ。さて、乗り換えるか。」 しかし、新しいその馬を見たら、その背には、自分ではない誰かが、もう既にまたがっていた! 馬の例えから、体に戻して考えてみよう。その体に「自分」が乗っているのはどうしてなのか、それは分からない。その体がそのような設計になっているのは、「自分」の知った事ではない。その「自分」と体の組み合わせは、巡り合わせ、とか、縁、とかしか語りようがない。 もっとぶっちゃけて言えば、デタラメ、である。 それにしても、そこまでは、組み合わせの話までは良しとして、 その体に「いつの間にか」乗っている「自分」がいる。 いったいこれは?! |
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060「打算」
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当てにするから、外れるのさ。 |